中国茶ファンのためのデータベース&ニュース

  1. 歴史と文化
  2. 1167 view

炒青緑茶のはじまり-松蘿茶と大方和尚

中国緑茶の多くは釜炒りで作られていますが、その原型を作った人は、どこの誰なのでしょうか?

大方和尚发明炒青制茶 在徽州休宁山创制松萝茶

明初,一个叫大方的和尚,在徽州休宁松萝山创制了一种茶;这种茶和唐、宋时期的茶叶不一样,他是采用了一种“炒”的方法来制作茶叶。由于这种茶出自松萝山,所以叫松萝茶;而这种茶的制作方法则被称人称之为“炒青法”,也叫“松萝法”。茶学专家说:炒青茶的香味比蒸青茶好;炒青茶的制作比蒸青茶容易掌握;炒青茶比蒸青茶省工省本;不要小瞧由蒸到炒的转变,它实实在在的是茶业的一次革命。这也是松萝茶出现后,能够很快推广并畅销言的重要原因。

本篇文章来源于第一茶叶网 原文链接:http://news.t0001.com/2014/0922/article_174168.html

明の初め、大方という和尚が、徽州休寧(訳注:現在の安徽省黄山市休寧県)の松蘿山で1つのお茶を作りました。このお茶は唐、宋の時代のお茶とは異なり、”炒”るという方法によって作られたお茶でした。このお茶は松蘿山から出て来たお茶なので、松蘿茶と呼ばれていました。また、このようなお茶の作り方は人によっては”炒青法”、あるいは”松蘿法”と呼ばれました。
茶学の専門家によると、炒青茶の香味は蒸青茶よりも良く、炒青茶の製造は蒸青茶よりも掌握しやすく、炒青茶は蒸青茶に比べて手順もコストも節約できます。蒸すから炒めるへの変化を馬鹿にしないで下さい。これは茶業における一つの革命なのです。これこそが、松蘿茶が現れてから、急速に広まってよく売れた重要な原因なのです。

大方和尚は、生没年が不明で、その人生もよく分かっていません。そのため、とても長い間、人々は大方和尚について多くを知らずにいて、中にはこのような優れた和尚が存在したことを疑う人がいたり、さらには松蘿茶の作られた時期についての疑念を持つ人など・・・がいます。

実際には、大方和尚は確かに歴史の記録に残っています。明代の名士・李維楨は「大方象賛」に一文を残しており、彼はまえがきの文章でこのように言っています。「今、新安(訳注:新安郡。かつての歙州で休寧県を管轄する地方)の松蘿茶は大方によって作られ、名前は天下に響いている。大方は隠士の服を着ており、髭を美しくたくわえて、垢抜けた仙人のようである」。
李維楨の言うことは非常にはっきりしていて、松蘿茶は大方の手によるもので、その名前は天下に冠たるものであったということです。そして大方和尚は髭をたくわえて、そのさまは仙人のようであったということです。
 李維楨は、明代の京山(訳注:湖北省荊門市京山県)の人です。隆慶2年に進士となり、庶吉士から編修になりました。多くの役職を歴任して政治に携わっており、浙江按察使から、礼部尚書を歴任しました。李維楨の性格は明るく闊達で、博学で文章も上手く、40年にわたり重責を負いました。「大泌山房集」134巻および「史通評釈」などが残されており、文学”中興五子”の栄誉もあります。このようなことから、李維楨の「大方象賛」は信用できるものと思われます。

龍膺は湖広武陵(訳注:現在の湖南省常徳市。湖広省は湖北省・湖南省分割前の省名)の人で、明代の万暦8年~14年の間、徽州府の担当をしていたことがありました。彼は在職中に松蘿山に大方和尚を訪ねたことがあり、大方和尚の松蘿茶づくりを観察するとともに松蘿茶を味わいました。このあとで即興で書いた手紙”茶僧”は大方和尚に贈られたものと見られます。
龍膺はこのときのことを、彼が編纂した「蒙史」の本の中に記録しています。「松蘿茶は休寧の松蘿山で産し、僧の大方が製造している。初めて松蘿山に遊びに行ったとき、大方長老自ら製茶法や道具を見せてくれたので、これを手記の茶僧の巻きに残してこれを贈り、その方法を伝えた」。龍膺は大方和尚に直々で教わり、退官したあとは地元に戻り、松蘿茶の製法を教えました。
これで分かるように、大方和尚は確かにいた人で、最も重要なのは、大方和尚は龍膺が徽州府で仕事をしていた時期にはまだ健在だったということです。

しかし、大方和尚がこの年”松蘿法”を教えたときには、まだ1つの秘密を隠していました。古い文献の記載によると、大方和尚はお茶を作るときには銀の鍋を使用しており、これはこの作者が自らの目で確かめたものです。しかし、銀の鍋でお茶を炒めるという秘密は他の人に気づかれたり見つけられたりしていなかったようです。なぜなら多くの”松蘿法”を紹介する書籍の中で、はっきりとこれについて記載をしたものが無いからです。思うに、大方和尚はお茶づくりを人に教える際に、銀の鍋を使わなかったのではないかと思います。これは手作りの技術を秘密にし、守るためだったのでしょう。
今から見ても、銀の鍋をお茶を作るのに使うというのは、商業的な笑い話でも、大げさな昔話でもなく、科学的な理由があるのです。なぜなら、銀の鍋でお茶を炒めると大量の銀イオンが発生しましす。そして銀イオンは、茶葉の柔らかで新鮮な美観を保ち、一定の殺菌作用もあるのです。

明の万暦36年(1608年)、休寧の有力者が銀で刻印をした「松蘿山記」の碑をたてました。石碑は年月による風化によって剥落してはいますが、依然としてこのように書いてあります。「・・・僧大方、歳歳辛労、精心焙製;清明雨前、茗香飄逸・・・」
現在、松蘿山の茶園にある平坦な場所には、1つの経幢が建っていて、その後ろは大方和尚の墓になっています。

 

安徽省黄山市休寧県の名茶である、松蘿茶こそが炒青緑茶の原型であるとされています。
当時、画期的な製茶法を編み出し、あっという間に中国の人々の心を捉えるお茶を作り上げ、それを普及した大方和尚の功績は、非常に大きいと言えるでしょう。

 

歴史と文化の最近記事

  1. 大紅袍母樹の生葉の永久性標本、故宮博物院で展示

  2. プーアル茶のパッケージは、なぜ綿紙を使うのか?

  3. 1973年以前にプーアル熟茶は存在したか?

  4. 「工夫茶」と「功夫茶」の違いとは?

  5. 「2・3・4・6」の数字で解説する白茶

関連記事

PAGE TOP