プーアル熟茶は1973年に開発された、とされています。
しかし、実際には急にプーアル熟茶が生まれたわけではありません。
それ以前にも熟茶のような製法は存在していたという話を解説する記事がありましたので、ご紹介します。
1973年は熟茶の”誕生元年”であると認識されており、確かにこの1年こそが”雲南現代プーアル熟茶”の”誕生元年”であると言えるでしょう。
しかし、1973年以前にも、熟茶の雛形は誕生していたとも言えます。
1973年以前に熟茶はあったのか?
プーアル茶の歴史は明朝時代にまで遡ることができ、明朝の謝肇淛が著した『滇略』には、”士庶所有,皆普茶也,蒸而成団……”という記述があり、この中の”普茶”こそが”普洱茶”であるとされますが、当時の製茶技術などは分かっていません。
明朝はあまりにも昔の時代過ぎて、実物が残っていないのです。
現在まで遺されている、もっとも古い時代の普洱茶の実物は、故宮に保管されていた清朝光緒年間の普洱貢茶です。
プーアル茶の発酵技術に関する書面での記載は、民国年間にあります。
1939年、范和鈎氏が佛海(現在の勐海)にやってきて、西双版納の茶葉の生産を調査し、『佛海茶業』にこのように記載しています。
”丙、潮茶一盘灶须高品、梭边各百五十斤,概须潮水,使其发酵,生香,且柔软便于揉制。潮时将拣好茶三四篮(约百五十斤)铺地板上,厚以十寸为度,成团着则搓散之。取水三喷壶匀洒叶上……潮毕则堆积一隅,使其发酵,热度高时中心达(华氏)106度,近边约(华氏)92度。”
1944年、譚方之氏も普洱茶原料の発酵技術について、記録しています。
“茶叶揉制前,雇汉夷妇女,将茶中枝梗老叶用手工拣出,粗老茶片经剁碎后,用作底茶,捡好之‘高品’梭边需分别湿以百分之三十水,堆于屋隅,使其发酵,底茶不能潮水,否则揉成晒干后,内部发黑,不堪食用。”
上記2つの説明はいずれも、当時の普洱茶が原料の加工工程において、水を撒く発酵技術を用いていたことが書かれています。
しかし、よく読み込んでみると、この時期の”発酵”は、時間も長くなく(数日)、程度もそれほど進んでおらず、現在のプーアル熟茶とは大きな違いがあり、むしろ安化黒茶の湿胚発酵に近いものです。
このため、この時期のプーアル茶の発酵は、熟化の程度が高くないため、”民国紅湯茶”と呼ばれていて、プーアル熟茶の初期段階としか言えません。
それらの多くは、その後の長い茶馬古道の道中で徐々に後発酵していったことでしょう。
香港潮水茶
熟茶の発酵技術の雛形で、香港は昔から普洱茶の重要な消費地域で、特に飲食店、レストランで大量に消費されます。
香港人はさっぱりしたものを飲食する傾向があり、彼らは普洱茶とは紅湯紅水のものであると認識し、茶葉が発酵を経ることで、茶の性が温になり、苦渋味も低くなってからの普洱茶こそ日常的に飲めるものだと考えています。
このため、号級茶の時代から七子餅茶の時代に至るまで、普洱茶は香港に到着すると、ある程度の時間、倉庫に保管して陳化させ、香港の高温多湿の自然環境の中で、自然の後発酵を行います。
新中国が成立後は、社会主義への転換が図られ、これらの号級老茶荘は国有となり、中国茶葉公司が全国の茶葉生産と輸出業務を掌握しました。
様々な理由から、1950~60年代、香港に輸出されたプーアル茶は、数量の点ではとても香港全体の需要を満たせるものではありませんでした。
香港はお茶を生産していないですし、歴史や政策の原因から、直接雲南から普洱茶の原料を得ることが出来なかったため、一部の茶荘の経営者はベトナム、タイ、ミャンマーなどから大葉種の晒青原料を購入し、香港で水を撒いて発酵させる普洱茶の研究を行いました。
その中で代表的な人物には、”香港熟茶の第一人者”とされる盧鋳勳氏がいます。
香港潮水茶の発酵時間と程度は現代のプーアル熟茶ほどではなく、一般に渥堆して十数日後に、茶葉がまだ完全に乾燥しきらないうちに、麻の袋の中に入れて発酵を続けます。
このような発酵方法の茶葉には、一定の”倉味”が付き、このあと一定の期間の退倉処理を行う必要があります。
さらに、香港潮水茶の原料は基本的には雲南大葉種晒青毛茶ではなく、現在の国家標準の定義にある”熟茶”とはだいぶ違うものです。
広東普洱茶
熟茶の発酵技術の前身で、広東と香港は隣接しており、香港潮水茶の技術は50~60年代には広東にも伝わっていました。
かつ1973年以前に、雲南の大葉種晒青毛茶は、中国茶葉公司によって統一的に調達され、広東茶葉進出口公司に転売されていて、発行をした後に香港へ再輸出されていました。
広東茶葉進出口公司は香港商人の製法に触発されて、人工的に加速させる後発酵普洱茶の技術を開発し、1957年からこの技術を用いて、広州の大冲口倉庫で量産加工を開始し、散茶と緊圧茶を生産して、広東普洱茶がここに誕生したのです。
緊圧して七子餅茶にしたものは、”広雲貢餅”と呼ばれました。
広東普洱茶は、雲南現代プーアル熟茶の前身と言ってもよく、結局、1973年、雲南国営茶廠の技術的なバックボーンは広東省で普洱茶の渥堆発酵技術を学んだ後に、雲南に戻って、この技術をベースにして調整、改良を行ったものなのです。
広東普洱茶の渥堆方式、発酵時間の長さと発酵程度は雲南熟茶の非常に近いのですが、その両者のスタイルの違いは非常に大きいものです。
両者ではまず、使用する原料に違いがあります。
広東普洱茶は完全に雲南大葉種の晒青毛茶を使っているわけではなく、地元広東省や周辺の省のもの、あるいはベトナムなどの毛茶を用いていて、そのなかには中小葉種のものなどもあり、発酵後にブレンドをしてしまうので、雲南の茶葉は脇役に過ぎません。
次に、広東普洱茶の渥堆発酵の水を撒く工程では、撒くのは熱いお湯です
これは広州の気候条件により設定されたものです。
雲南の熟茶発酵の際に撒くのは冷たい水で、これは製茶に携わった人たちが雲南と広東で異なる気候条件などを基に、繰り返し試験することにより、最も良い方法を模索して確定させたものです。
このように、1973年は”雲南現代プーアル熟茶”の誕生元年ですが、これより前に、普洱茶の人工発酵技術はすでに半世紀あまりの発展と変化を遂げており、何も無いところから突然出てきて、一夜のうちに完成したものではありません。
1973年以降、”雲南現代プーアル熟茶”が本当に歴史の舞台に登場してから、雲南大葉種茶の豊かな内質に深みと彩りを与え続けています。
熟茶に関しては、以下のような5つ段階に分けることが出来るでしょう。
誕生段階:1970年代(熟茶の誕生は1973年。言い換えると、1973年が分岐点で、これ以前には熟茶はありません)。
過渡期段階:1970~80年代、この時期の段階は”成熟段階”とも言えるでしょう。熟茶は1973年に開発が成功したとはいえ、その技術はまだ不十分だったため、熟茶は大量に生産して販売することが出来ませんでした(1974~76年)。このため、1970年代から80年代の間には熟茶の技術には絶え間ない試行錯誤があって完成していくのです。
1980年代になると、熟茶が継続的に量産されて世に出るようになり、ここから熟茶は徐々に成熟段階となっていき、熟茶の製茶技術の過渡期だったと言えます。
成長段階:1990年代~2009年。80年代の過渡期を経て、90年代になると、熟茶は成熟したものとなり、この時期には大工場以外でも、当時勃興してきた小工場でも、自主ブランドで熟茶の生産を始めました。2000年以降には、このような自主ブランドがどんどん大きくなっていき、熟茶市場にとって欠かせない力となりました。
このため、この時期は熟茶の成長段階と言えるでしょう。
停滞時期:2009年~2014年。生茶市場と古樹茶市場の成長と値段の吊り上げにより、この時期の熟茶は市場からの受けがあまり良くなく、このために成長は停滞しました。
大ブーム期:2014年から現在。大きな環境変化を経て、普洱茶業界は一連の淘汰が行われ、古樹茶は推測できない状態ですが、消費習慣と飲み方の変化によって、熟茶のブームが続いており、特に2015年から現在まで、熟茶はある方面の人に言わせると、市場では不可欠な中間勢力となっています。
プーアル熟茶の製法は、突如として出現したように捉えられがちですが、それ以前に様々な試みがあり、それが大成したのが1973年ということです。
このような流れを知っておくと、プーアル熟茶への見方も変わっていくかもしれません。