中国の茶業界でもお茶会はどんどん先鋭化していって、それこそ茶室ごと作ってしまう茶空間などが流行っているわけですが、こうした過度な”雅やかさ”を懸念する向きもあります。
ちょっと長い文章ですが、ご紹介します。
茶是怎么变雅的?
茶会越来越雅了,雅到不做准备都不好意思参加。桌上摆着的请帖,有些要小心应付。尤其是那些毛笔小楷竖写,名后是“道席”之类问候,里面装满了各种与茶相关雅事。宣纸上有古琴、尺八之类的曲目,要品的茶来自武夷山“三坑两涧”,或者二十年,三十年乃至更有年份的普洱、白茶,偶尔也会出现些老六堡茶做点缀。当然,在“老”的语境下,老铁(铁观音),老红(红茶)也颇受青睐。
本篇文章来源于第一茶叶网 原文链接:http://news.t0001.com/a/201608/00005163.html
茶会はどんどん雅やかになってきていて、あまりに雅やかなため、きちんと準備をしないと参加するのが恥ずかしいくらいです。テーブルの上に敷かれた布は、扱いに気をつけなければいけません。とくにそこに毛筆などで文字が書かれており、名前の後に”道席(訳注:手紙の書き出しに使う。日本語の「拝啓」のような感じ)”の類いの挨拶があり、そこには様々な茶に関する雅な事柄が満ちています。画仙紙には古琴、尺八などの曲目が書かれていて、味わうお茶は武夷山の”三坑両澗”だったり、二十年、三十年、或いはそれ以上のプーアル茶だったり、白茶だったり、たまには老六堡茶なども出てくることがあります。当然、”老”という文脈の中で、老鉄(鉄観音)、老紅(紅茶)なども人気があります。
話をすることが出来るかどうかも、肝心な点です。茶業界の多くのお茶会では、いずれも”言葉を交わさない”もので、来た人たちは相互に交流することはできず、ただ主人の声が茶杯を持ち上げ、置く動作の中にあるだけです。主人はどのようにして茶の味わいを見つけるかをあなたに教え、主人はまた茶気を探し、茶の余韻を発見し、茶神が上空にいることをあなたに信じさせるようにします。
私はいつも古典音楽の文字を見ると怖じ気づき、拍掌のタイミングを間違えないかと心配して、さらには聞きながら寝てしまうことを恐れます。しかし現在の茶会は古琴ではなく、尺八に偏っています。あるとき、私は我慢できなくなって、興味津々の様子で聞いている友人に聞いたところ、彼の答えは「私も分からない。他のことを考えている」でした。その日、古琴の演奏者は李祥霆で、あの琴の話は蘇東坡が残したもので、飲んだものは百万の価値がある宋聘号のプーアル茶でした。尺八についていえば、多くの人にとっては、一般の簫とあまり大きな差は無いように見えました。
茶会ではまた大仙人に会うことがあります。飲んだだけで海抜を当て、味わって年代を当て、水のナトリウムがどのくらいあって、鉄がどのくらいあるかを味わって言い当て、さらにはお茶を飲む姿勢が違えば、身体に働く場所もまた違うと言います。このような人に会うと、大体その背後には唐の詩が300首ほど息づいていて、降参するしかありません。
雅やかな茶会は食事に関しても、大部分は素食のレストランが選ばれ、多くの素食レストランは教育を受けるには良い場所です。入口のところでは無料で仏教の書籍を得ることができて、テーブルや壁には食事をするのが容易ではない警告があって、タバコを吸うこともお酒も厳禁で、大声で話すことも許可されません。従業員はとても礼儀正しく、店に入ればお辞儀をして、店を出ればお辞儀をして、料理を注文すればお辞儀をして、料理を持ってくればお辞儀をして、あなたが何かを要求する度にお辞儀をします・・・ 1つの茶会に参加をし、一通りの素食料理を食べると、自分には教養が無いことが分かり、手の甲の上には”小”という文字が見えるだけです。
茶事が雅やかな事になるのは、現代特有の現象ではありません。
東晋の名士の王濛は、お茶を飲むのが好きなために、自分と同じような愛好者を作りたいと思っていました。しかし、彼の家に行くとあまりにもお茶を飲まされすぎるのでかえって顔が立たず、お茶を飲むことは”水厄”とされ、そのあざけり笑われることは1000年あまり後にまで語り継がれています。
唐以前の喫茶史は、寺院出身の陸羽が多くの時間を費やして研究を行いましたが、数少ない言葉から小さな書物にすることしかできなくて、彼はただ手足を動かして、汗水の味のある茶の研究レポート『茶経』を著しました。
ある和尚は李白のお茶の物語を借りますが、ずっと模倣するだけで、それを越えてはいません。李白唯一の茶詩である『答族侄僧中孚贈玉泉仙人掌茶』は、私たちに茶が雅やかになる全ての秘密を指摘してくれます。お茶が産するところはとても奇妙なことに、寺廟近くの鍾乳洞で、玉泉があるだけではなく、玉泉を飲んだがゆえに1000年生きた蝙蝠もいます。なぜなら水が良いからで、80数歳の老人も顔色は未だに桃李のようです。ここで育った茶は”拳のように重なり、その形は手のようだ”とされます。李白は自分が最初にこのお茶を人に伝える者であり、唯一の命名権と解釈権があるとして、異常に興奮します。
茶の産地は好い山と好い水があり(これらの地方の大部分は寺廟と関連があります)、お茶を飲む場所は自ずと名山や大河(奥深い林の中の小さな建造物だとなお好い)です。たとえこれらを全て備えていないとしても、あばら屋さえあって、水質が良く、道具が精巧で、茶葉が良いものであれば(水には必ずポテンシャルが必要で、茶具は必ず大物によるもので、茶はとにかく良いお茶であること)、良い人(女性であればきっと良い人です)が一緒に座っていれば、自ずと和らいだ気持ちになります。
唐代に築き上げられた絶妙な言葉の体系は非常に堅固で、後世の人がお茶について”悪い話”を言おうとしても、”悪い話の言葉”はいずれもこのような反駁によって支持されません。これは酒とは全く別の矛盾した論理を形成していて、酒について言えば、悪い話の方が多く聞かれ、酒を飲むことの必要性を説くには知恵を絞り出さなければいけません。”酒池肉林”、”酒肉朋友”、”酒嚢飯袋(訳注:ろくでもないやつ)”のような類いで、考えると胸が張り裂けそうです。
宋代の人は、唐代を継承し、茶に関する全ての言葉は絶妙な良い言葉です。むしろお茶は水によってより活気が生まれたように、良い言葉によって活気が生まれたのです。
宋の徽宗は、お金のある人はお茶多く飲んで、俗世間の雰囲気から抜け出すように命令し、茶の飲み方に関して指南した専門書『大観茶論』を著しました。明の皇子の朱権はお茶を飲むために、お茶専用の竈を開発しました。江南の士大夫は、精巧で美しい自分の庭に、お茶を飲むための場所を作りました。
張岱は精舎を出て、茶と人の関係をもう一つの高みに進めました。茶と水の産地を味わい、茶摘みの春と秋の違いを味わい、高貴な人々から褒賞を得ました。現代の闘茶は、いずれも張岱がここで始めたものです。しかし、張岱が味わって見いだすのは、大部分は”考えて当てる”ので、ここには大きな違いがあります。
乾隆帝は江南に行く度に、いくつかの茶室をデザインしていて、彼は北京で20あまりの江南スタイルの茶室を改装し、さらに彼の嗜好を表わす”三清茶”を発明しました。
乾隆帝の一族の人は、茶室を鳥を連れて散歩し、演劇を見る遊び場としました。清の末期には”打茶圍”は乱れた場所の代名詞となり、民国年間の胡適は”打茶圍”が無ければならなくなった後で、特別な解釈をします。茶室に行ってお茶を飲むことはもはや雅やかな事ではなく、周作人は、自ら苦茶を飲む家として”苦茶庵”と命名しました。
中には茶がこのように俗っぽくなってしまったことに甘んじない人々がいて、茶室は再び雅やかな場所になり、”清茶館”と呼ばれる店が現れ、その入口には特別な注意書きがあり、この店には麻雀室はなく、料理も提供せず、ただ香りを聞き、お茶を味わい、絵を描き、花を生けるといういわゆる四般閑事のみができる場所でした。
お茶はそもそも厨房にあるもので(柴米油塩酱醋茶)、現在は大急ぎで書斎(琴棋書画詩酒茶)へ向かっています。大体、後代の人は張岱の晩年の忠告を忘れました。つまり、落ちぶれた老人であって、たとえ床が破れ、テーブルが壊れ、鼎が壊れ、琴が壊れ、書が破けた場所であっても、山水、太陽と月、茶壺が相手をしてくれる、と。
お茶は賑やかで華やかなものとは関係が無くて、手を伸ばせば届くものです。私たちはただ品位を考えるだけでなく、認知も考えなければいけません。
かなり皮肉の効いた文章ですが、その中にはお茶を飲む場所が俗っぽくなったり、妙に格調高くなったり、ということの歴史が書かれています。日本の”カフェ”もそのような経緯を辿っているので、嗜好品飲料を飲む場所というのは得てしてそうなりがちなのかもしれません。
しかしながら、このような観点からの提言は、最近の過熱気味の茶会に一石を投じています。