お茶が戦争に関わった事例として、アヘン戦争を思い浮かべる方も多いと思います。
あまり日本では知られていないのですが、辺境の少数民族との間でも激しい戦争を引き起こしたことがあります。
その中の1つ、明と北方の少数民族の間で起こった戦争についてご紹介します。
明朝暂停茶叶边贸引发蒙汉三年血战 茶叶贸易回原点
公元1575年,明朝终于结束了一场历时三年的清河堡战争,这是一场典型的北方游牧民族攻击中原边境军事要塞的战争。进攻方是蒙古汗图们札萨克图率领的蒙古各部,以及女真族的建州部。打了三年,战争没有胜利者,蒙古各部死伤惨重,明军虽然最后守住了清河堡,但是主将裴成祖战死,军民伤亡不计其数。
本篇文章来源于第一茶叶网 原文链接:http://news.t0001.com/2014/1102/article_175257.html
西暦1575年、明朝は3年にわたる清河堡戦争を終結させました。これは北方の遊牧民族が中原の辺境にある軍事要塞を攻撃してきた典型的な戦争です。攻め入ったのはモンゴルのトゥメン・ジャサクト・ハーン率いるモンゴルの各部族で、女真族の建州部も含まれていました。3年戦いましたが、戦争の勝者はおらず、モンゴルの各部族の死傷者は多数で、明軍も最終的には清河堡を守り切りましたが、大将の裴成祖が戦死するなど、軍人の死傷者は数え切れないほどでした。
この戦争を引き起こしたものは、最近の見方では茶葉の不足によるものだと考えられています。歴史書には、張居正が打ち出した茶の密輸の取り締りに対して、遊牧民族が抗議したとあります。
西暦1572年、10才の万暦帝がちょうど即位しました。朝廷の政治は宰相の張居正が主に担当していました。当時の茶葉貿易は政府の独占であったため、公式の取引価格が大変高く設定されており、民間での密輸茶やヤミ茶が出回るようになっていました。密輸茶、ヤミ茶の量は多く、品質も良かったことから、公式の茶貿易に大きな打撃を与えていました。宰相の張居正は就任後、民間の密輸を取り締まることを決意し、万暦帝の名前で、辺境の茶葉貿易を一時停止するという詔を出しました。
明王朝の本心は、辺境の茶葉貿易を止めると同時に、密売を行っている茶商を取り調べ、違法な役人に懲罰を与えることにありました。しかし、このあまりにも厳しい措置によって、辺境への茶葉の供給が完全に断絶することになってしまいました。
北方のモンゴルおよび女真の各部族は混乱に陥り、次々と書面で明王朝にすぐに辺境の茶葉貿易を再開するように求めました。各部族は平和的に解決しようと努力していたのです。建州女真の首領である王兀堂は、明朝の遼東巡撫の張学顔に対し、清河茶馬市場の開放だけを要望し、彼はただただそれを願っており、また「私が、茶葉市場開放のための人質になっても良い」とまで言っていました。このような要望でさえ、ずっと断られ続けていたのですから、他の部族の首領が明朝に提出していた対等な貿易の要求が通らないのも、無理の無いことでした。
茶葉が引き起こした戦争は遂に爆発します。3年にわたる血みどろの戦いは茶葉貿易にその原因があったのです。明王朝は茶葉市場の再開を宣言するに至り、モンゴルと女真の各部族の闘志は崩れていくことになりました。硝煙の無くなった清河堡は再び茶馬貿易の重要な拠点となりました。茶葉は遊牧民族にとっての食糧と塩に匹敵するのです。
それぞれの地域により喫茶習慣は違いますが、北方の民族にとってのお茶を飲むことは、一種の生理的な需要です。モンゴル族などの北方の遊牧民族は牛や羊の肉、乳などを多く摂りますが、これらは熱があり、脂っぽくて、消化しにくいものです。しかし茶葉に豊富に含まれる、ビタミン、タンニン、カフェインなどは、遊牧民族が欠乏している果物や野菜などの栄養成分を補うのにちょうど良いのです。茶に含まれる大量の精油は動物性脂肪を溶かし、コレステロールを低下させ、血管壁の強靱性を高めます。茶葉の健康機能は遊牧民族の不足する食物バランスを補うのにちょうど良いのです。
遊牧民族にとってお茶を飲むことは、もう1つ衛生面でも良い効果があります。熱いお茶を飲むことは、細菌を死滅させ、さらに腸や血液の寄生虫に感染する確率を減らしました。お茶を飲むことが、彼らの冷たい水を飲むという習慣を変えたのです。
このため、中原の民族にとっては生活の潤いを与える茶葉は、北方の少数民族にとっては、食糧や塩などと同じで、生活の必需品であり、一日として無ければ暮らしていけないものなのです。茶葉の供給を絶ってしまうことは、少数民族の命を絶つことにさえ繋がると言えるでしょう。
中国政府が少数民族向けの黒茶などに補助金などを与え、安価に大量生産させている理由が、この歴史の出来事から読み取れるのではないかと思います。