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正山小種の伝統技法”過紅鍋”を復刻

正山小種の伝統的な技法として、”過紅鍋”という技法があります。
しかし、現実にはこれが行われていないケースも多かったのですが、古い技術を復刻させる茶師の方が出てきたようです。

武夷茶师复原失传老工艺 再现传奇“过红锅”

一百多年前的茶喝起来是什么味道,现在也能品尝到。金骏眉首创师傅近期又一次通过手工制茶方式,传承了武夷岩茶的制作工艺。近日,记者采访了多位武夷岩茶的制茶师傅,正是他们在创新和复古两个方向上不断提高自己的手艺,才陆续制作出让全国甚至世界惊艳的茶。

本篇文章来源于第一茶叶网 原文链接:http://news.t0001.com/a/201506/00001618.html

百年前のお茶を飲んだときにどんな味がするのかは、今でも飲んで知ることができます。金駿眉を初めて作った茶師が、最近、また手作りの方法を経て、武夷岩茶の製造技術を伝承しました。最近、多くの武夷岩茶の茶師を取材しましたが、まさに彼らは創造と復刻の両面から自らの技術を高めようとしており、このことによって、全国のみならず世界を驚かすようなお茶を作り続けられるのです。

 

<金駿眉を初めて作った茶師 失われた技術を復元する>

発酵の終わった茶葉を摂氏200度近い鍋の中に入れ、3~5分程素早くひっくり返すように炒め、茶葉の発酵を停止させます。さらに茶葉の青い草のような香りを取り除き、茶の芳香物質を十分に活性化させ、茶の味わいの厚みと甘さを高めます。これが伝説の”過紅鍋”です。
70歳近い梁駿徳さんは、高温の鉄鍋のそばに立ち、手を休むことなく動かします。いにしえの技術が彼の手によって復活したのです。「これは確かに非常に手間がかかります。特に現在の技術が始まって、製茶機械が普及してから、”過紅鍋”は民間から失われて長年が経過しました」と梁茶師は言います。彼もまた記憶を呼び起こしながら、少しずつ”過紅鍋”を復元していきました。

この梁茶師こそ、金駿眉を初めて作った人です。金駿眉は2005年に出現してから、しばらく沈黙を続けていた福建の正山小種は急速に全国に広がりました。10年を過ぎてから、梁駿徳さんが行ったのは、長年途絶えていた”過紅鍋”を復活させることでした。

梁俊徳さんの考えでは、職人の仕事とはその人の人生そのものであって、そこには自らの知恵と技術、さらにはその文化の歴史までもが含まれます。”過紅鍋”についていえば、これは確かに正山小種紅茶の最も原始的な製造技術で、約400年あまり前に武夷山の桐木関に存在していたものです。

梁俊徳さんによると、彼は15歳の時に生産隊に学徒として入り、その時に父親は隊で茶の生産に主に携わっていました。”過紅鍋”の不思議な技術を見て、彼は真似をしたいと思いましたが、そのたびに大人たちによって、屋外へ出されてしまいました。彼がこの技術を十分に学習する前に、”過紅鍋”の技術は失われてしまいました。
「良かったのは1960年代に、政府は伝統的な製茶技術の復興を重んじ、一人の農業大学卒業生を桐木関に派遣し、”過紅鍋”の復元と記録を行ったのです」。当時は梁駿徳さんの父親がこの技術を主に行っていて、その大学生が彼の家にいたので、梁駿徳さんは幸運にも”過紅鍋”の全ての技術を検証し、学ぶことが出来たのです。

「1つ1つの工程で、私たちは100回から1000回にも上る試行錯誤を行いました」。梁駿徳さんの考えでは、製茶師は他の職人と何も違うところがなく、1つの製品を作るためには、繰り返しの試行錯誤が何度も必要で、それによってようやくみんなに認められる製品ができるのだといいます。

<製茶技術の伝承人は手作りの製茶方法を広めます>

梁駿徳さんと同様に、武夷岩茶の多くの茶師たちも、茶の製造技術についてもっとよりよいものを求めています。

大紅袍の手作り技術の生産性保護模範基地では、晒青棚から做青室に至るまで、そこにはいかなる機械設備の姿も見えません。ここで製茶をしている葉啓桐さんは、ここで製造している大紅袍は、茶摘み、揺青、炒青から荒茶の乾燥に至るまで、全て伝統的な手作りの技術を使用しているといいます。これだけでなく、葉啓桐さんとその弟子たちは、手作りの製造技法を広めています。
「武夷山市の茶園面積は1万畝を超え、茶葉会社は1000軒あまりありますが、大部分のお茶はどれも機械化された生産を行っていて、手作りのお茶はどんどん少なくなっています」と、葉啓桐さんと彼の弟子の季女史は言います。手作りの製造工程によってのみ、それぞれ違った茶葉の特性と季節の違いによる違った茶葉を作ることができ、このような変化は機械の製茶では到底到達できないものです、といいます。そして、”手の感覚”の蓄積により、製茶師は自らの技術をどんどん”進化”させ、成長し、新しいお茶を作ることができるのです。

このような考え方は武夷山では広く認知されています。武夷岩茶の伝承人である王順明さんは、この前の数週間が彼の一年で最も忙しい時期で、毎日暗いうちから起き、茶摘み、萎凋、做青から殺青、揉捻、乾燥、茎取り、焙煎と全て手作業によって完成します。王順明さんによると、どの行程も”手の感覚”が大事で、彼はこのために40年あまりの時間をかけて模索し、今でもまだそれは結論が出ていないと言います。なぜなら、彼はずっと自らを高めようとしていて、手作りによる製茶によってこそ、人に味わってもらうべきお茶が作れるといいます。

 

<他山の石>

宋代の福建のお茶の技術は日本でまだ続いている

武夷山の取材を行っているときに、日本から武夷山の岩茶の製造技法を学びに来ていた佐々木昇さんに会いました。彼は、武夷岩茶はかつてここから東南アジアの国々に輸出されることが多く、日本ではほんの僅かのお茶しかありませんでしたが、ここ数年は、徐々に日本のお茶愛好家が武夷岩茶を広めるようになってきています、と話していました。

「日本と多くの欧米の国々が違うのは、手作りの製品をとても重視することです」と佐々木昇さんは言います。毎年、一部の日本人のお茶愛好家は武夷山に来て岩茶の手作りの技術を見に来ていて、中にはまた学びに来る人もいるそうです。彼によると、武夷山の多くの茶師と日本の職人は同じように、大変細かく気を配るといいます。

佐々木昇さんによれば、日本の煎茶は明代に、福建の1人の和尚さんによって日本に持ち込まれたものです。現在、日本で優れた茶師は、煎茶を作るときに非常に多くのことに思いを巡らせます。茶樹が発芽する3週間前から、茶樹の上に棚を設置して、茶樹の芽が柔らかいままであるようにし、これによって光を遮ることができるので、茶の色はより深くなり、茶の湯はより清涼で透明感のあるものになります。彼によると、日本のこのような製茶方法は宋代の福建地区の製茶技術が守られているといいます。彼の考証によると、福建省が宋の徽宗帝のために作った献上茶は、このような方法によって作られ、最も柔らかい芽を選び、そのうち最も柔らかい芽の芯の部分のみを使っていたのです。

 

安渓と比較すると、伝統技法を重視する武夷山。
土地柄ということもありますが、福建の南と北で、茶作りも大分違うようです。

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